ただ太鼓を聴いていただけなのに、なぜこんなにも「生きてる」と感じたんだろう。
🗂 目次
- 演奏会の概要
- 一打一打に、命が宿っていた
- 「大太鼓」が見せてくれたもの
- 舞台裏すら“演奏”だった
- 音楽を通して、自分を“俯瞰”するということ
- 「生きてるなぁ」って、こういう瞬間のことだ
- 最後に
- 写真とリンク
- 読んでくださって、ありがとうございました
演奏会の概要
2025年6月22日(日)16:00〜
栃木県総合文化センター 大ホールにて、
「鼓童 ワン・アース・ツアー2025」を観てきました。
これは、和太鼓を中心とした舞台芸術を世界に発信し続けている
演奏家集団「鼓童」による演奏会です。
正直に言うと、ただ太鼓の音を聴きに行ったはずなのに、
演奏が始まってすぐ、心臓の鼓動が揺さぶられ、
最後まで全身で「生きている」と感じ続ける時間でした。
一打一打に命が宿っていた
冒頭から最後の一音まで、とにかく圧倒されっぱなし。
自分も少し太鼓を叩いたことがあるからこそ分かるのですが、
和太鼓の演奏って本当に体力を削られるんです。
バチは重く、構えはきつく、力任せでは絶対に叩けない。
それでも鼓童の演者たちは、その大変さを一切見せず、
むしろ子どものように楽しそうに、自由に、太鼓を通じて表現していました。
この「楽しそう」という感覚こそ、プロフェッショナルだと強く感じました。
「大太鼓」が見せてくれたもの
中でも特に印象に残っているのが、「大太鼓」という演目。
ステージいっぱいの巨大な太鼓を、二人の奏者が魂を込めて叩いていました。
バチも大きく、跳ね返る力も相当あるはずなのに、
それを全身で受け止めながら、音と一体化するように演奏していた姿は、
もはや芸術というより「祈り」のようにさえ感じました。
しかもその演奏は、ただ音がすごいだけじゃない。
踏んどし一丁の姿で、鍛え上げられた背中や腕の筋肉がはっきりと見え、
視覚からも「一流の力」をまざまざと感じさせられました。
舞台裏すら演奏だった
舞台転換のときにも幕は下りません。
太鼓の位置を変えたり、セットを移動させたり、
その一つひとつの動作までもが、まるで演目の一部のようでした。
無駄のない動き、整った姿勢、所作の美しさ。
「神は細部に宿る」という言葉がぴったりです。
音楽を通して自分を俯瞰するということ
どの曲も、音の強弱、間の取り方、動と静のバランスが絶妙で、
まるで「感情を操作する演出装置」のようでした。
でもそれをやっている奏者たちは、音楽に没入しきってはいない。
むしろ自分自身を俯瞰し、客観的に「どう叩けば、どんな感情が伝わるのか」を理解している。
これは、私が今学んでいるコーチングの「俯瞰力」とすごくつながっていて、
あらためてプロフェッショナルとは何かを考えさせられました。
「生きてるなぁ」って、こういう瞬間のことだ
太鼓の音が鳴っている間、私はずっと心を揺さぶられていました。
「今、確かに生きてる」と思えた。
日々の生活の中で、つい忘れがちなその感覚を思い出させてくれました。
魂のこもった表現は、人の心に届きます。
それが、音でも、動きでも、所作でも。
そんな瞬間に立ち会えたことに、心から感謝しています。
最後に
「音を聴きに行った」というよりも、
「命の表現に触れに行った」と言った方がしっくりくる。
そんな濃密な時間でした。
きっとまた観に行きます。
そしてまた、「生きてるなぁ」と感じたい。
写真とリンク

読んでくださってありがとうございました
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この鼓童の舞台で私が感じた「生きている実感」が、
少しでもあなたの心にも届いていたら嬉しいです。
音や表現を通して、自分自身と向き合えたり、
日常では忘れがちな感覚に気づけたりする。
そんな力が、音楽や舞台芸術にはあると、私は信じています。
これからも、心が動いた瞬間を言葉にして、
こうして届けていけたらと思っています。
またぜひ、読みにきてくださいね。